
飯田屋小山 富太郎さん
“ふるさと”と言えば、歌にもあるように野に兎を追い、川で小鮒を釣るといった里の景色を浮かべるものですが、私が思い出すのはゴトゴトと通り過ぎて行く市電の音や路地の奥の薄暗さ、店と店の間の狭い敷地でやった三角ベースボール。四条通に生まれた私にとって、まちの雑踏こそが懐かしい風景です。
私は昭和3年(1928年)に四条通富小路にあった「飯田糸見世」に生まれ、終戦直前の16歳までそこで暮らしました。安政生まれの祖父は大阪で繊維関係の仕事をしたあと、明治28年(1895年)に京都へ来たと聞いています。三条新町や四条の立売西町(いまの大丸の少し西)で店をもち、富小路の西南角に移ったのは大正13年(1924年)。いまの福寿園さんのビルがあるあたりです。そのときのようすを祖父の従兄弟がいくつか写真で記録しており、それがいま手元に残っています。

以前、母が存命中に私と二人であのころの四条の店の名前を書き出してみようとしたのですが、時代による差もあり整理が困難で諦めたことがありました。ただ、個人的な記憶の描写なら、書きとめることはできるだろうと思い立ち、2009年に『京都四条界隈気ままある記』と題して小冊子を作りました。元来、歴史が好きということもありますが、いま誰かが書きとめておかないと、ふるさとの四条の記憶がいずれはすべて忘れ去られてしまうという危機感もあったからかもしれません。またこんなことができるのもパソコンのおかげですね。

子どものころの遊び場はもっぱら繁華街。まちなかの子はやはり、家のなかで遊ぶことも多かったでしょうか。近所の会社の人の目を盗んでそこのボイラーの煙突によじ登って叱られたり、正月の凧揚げも店の大屋根に登ってした記憶もあります。河原町通を越えたら鴨川ですから、河原へ行って遊べばいいじゃないかと思われるでしょうが、当時の子どもにとってほかの町内の“縄張り”を越境して出かけるのはかなり勇気のいることでした。もちろんガキ大将もいて、ケンカもしました。大人になってから当時の敵とバーでばったり会って意気投合する、なんてこともありましたね。
河原町西の寺内さんにもよく行きました。もちろん子どもが宝石や時計を買うわけはなく、夏の夜、ショーウインドーにヒコーキムシと呼んでいた虫が光を求めてやってくる。水を入れた牛乳瓶に放り込むと水面と底の間をせわしなく往復するのが楽しく、その虫のために寺内さんまで“遠出”したものです。まちなかの子とはいえ、なにもない時代ですからいろいろ工夫をするわけです。ただ、いまのように何もかも用意されているよりはずっとおもしろい子ども時代だったかもしれません。
いま京都市学校歴史博物館になっている開智校が私の母校。そのあと府立一中、三高を経て、京大へ入ったと言うと「エラいエリートやな!」と思われるかもしれませんが、実はこれにはかなりの“ズル”があるのです。私の学生時代はほとんどが戦争一色ですし、中学は本来なら5年のところを「はよ戦地へ行け」とばかりに4年で卒業させられています。しかも三高の受験は筆記テストもほとんどなく、途中で空襲警報が発令され試験が中断する始末。三高でも勤労奉仕ばかりで、そもそも入学式が行われたのも大阪住友金属の寮でした。そのうえ式の2日ほど後には隣接の工場が爆撃されました。寮も全壊し、京都へ逃げて帰りました。つまり私は肝心なところがスコン!と抜けた“超ゆとり教育”の産物です。
父はかなり合理主義の進歩的な人で、家業のひも屋(当時)は継がなくていいと言っていました。ただ私が歴史をやりたいと言ったときには反対した。「戦争で負ければ政治も変わり、歴史なんて勉強したことがすべてダメになる。ひどい目に遭うぞ」と言うわけです。その点、理系なら共産主義も資本主義もない。歴史は仕事をやめてからゆっくりやったらいいじゃないか、と言われ、いまその通りになっています。
大学を出たあとは島津製作所に入って定年まで勤めました。質量分析計を作り始めたのは私の職場の先輩からで、まさかその分野からノーベル賞を獲る人が出るとはうれしい限りです。
少し時代は戻りますが、私が四条を離れたのは昭和20年(1945年)3月のこと。大阪が空襲を受けて四条も危ないと思った両親が、店を畳んで北へ住まいを移したのです。前頁の古い店の写真に写っている看板を細かく割って火にくべたのはよく覚えています。それほど燃料も足りなかった。

終戦の8月15日は私の17歳の誕生日でした。そのとき父が母に向かって「すぐに四条で空いてる店を探してこい」と言ったのには驚きましたね。しかも16日に出かけて行った母が「もう店はほどんど埋まってる」と言って帰ってきたときはさらにびっくりしました。昨日までどの店も空き店舗だったのに、生き馬の目を抜くとはまさにこのことです。
四条御旅所の横に店を構えたのはこのときから。本当に物が不足していて、品物を並べたら並べただけ売れる。「そんな場所に住むのはもったいない。これからは通いにする」と父が言ったことで、以来、私は四条を離れることになりました。
父はアイデアマンでしたが、それを実現するのはすべて母。二人とも四条で生まれた根っからの四条商人で、とくに母は83歳まで私の娘たちに手伝わせながら店を切り盛りしていました。母の見立てを信頼して二代、三代とご愛顧くださっているお客様もあり、我が母ながら趣味も良かったと思います。一度、母の見立てで舞妓・芸妓のきものを用意し、娘たち二人が「節分のおばけ」になってお座敷遊びをしたことがありました。料理はしないし、家のことは商売だけ、初詣もいかないような母でしたが、遊びは目のこやし、とばかりに楽しむのは商売人らしいな、と思ったものです。
いつも和服で、持っていた洋服といえば部屋着のアッパッパぐらい。平成に入るまでは定休日も設けず、正月3カ日だけ休んだら362日営業というスタイルをずっと守っていました。自分を律していたというよりは、性分だったんでしょうね。

いまの四条を見ると、私が生まれ育ったころとはまちも大きく変わりました。変化にはプラスとマイナスの両面がありますが、世の中を見渡すにつけ、四条のまちはいくつもの努力があって、どちらかと言えばプラスへと良く変わってきたほうではないかと思うのです。定年後は家内と少しずつ各国へ旅行にも行きましたが、千年も一つの王朝の都だったところがいまも栄えているのはほかにありません。廃墟になっていてもおかしくないのに。このまちは新しくなっても守るべきところは心得ている。その精神をこれからもどうか受け継いでいっていただきたいと願っています。